2006/12/07

漫画論・あしたのジョー描写の好不調


20分冊の5巻までは一点の曇りも無い。

6巻の、控え室でウルフと相打ちになり、通路に視点を転じ、戻し、倒れるまで、ストーリーあたり
面積を食いすぎている。幹之介がジョーの作戦を察して強烈に援護してくれる部分を
しっかり描いたほうが良かった。その週から連載ページが増えたのでペースが狂ったと思われる。
7巻のウルフ戦は脚本に無理があるためか不調。
ちなみに描写が最も優れている試合は4巻のジョー・青山戦である。
プロ試合をあのように描けないのは脚本にそれだけの内容が無いからだ。

8巻力石戦の途中から不調。
 [ぐったりした状況を描く]と、[描写の不調により読者がぐったり]はぜんぜん違う。 
力石がテンプルを打たれるシーンは、アップの連続でタイミングや動きがわからない。
また、ここでも倒れるまで面積を食いすぎている。膠着状態が急転するのだから、
テンプルを打たれるまでに面積を使い、突然ばったりが良い。ストーリー上の重さを
表現するなら倒れた直後に面積を使えばよい。
また、力石がロープで頭を打つ大きな絵は左右の扱いが逆である。
セリフ縦書きの漫画では読者の視線は右→左であり、この要素は大きい。
単にダウンかと思わせてロープで頭を打つという意外なことを見せるのだから
読者視動にカウンターで動くのが似つかわしい。また、低くまわり込んだアングルでなければ、
体がマットに触れていないことがわからない。また、紙に対して人体が大きすぎるので
ふやけた感じがする。これらは漫画家が疲れていたからだろう。
本項は標準的な失敗を拾っているのではない。1~5巻にはこの種の乱れは一点も無いの
だから。最後のダウン、倒れるジョーを三連写したページは、先に描いたのだろう。

9巻は絶品である。
ちばの全作品の中で最高の200ページと言えるだろう。

10巻以降またグダグダになってしまい、その後回復せずに終わっている。

連載は三度中断されており、一回目は第一部と第二部の間。
脚本の方針を大きく考える必要があったからだ。このあたりは大丈夫で、
タイガー戦から不調になる。二回目の中断はそのタイガーがボディーブローでダウンするところ。
二回目と三回目の原因はちばてつやの過労。
再開後も不調で、各キャラクター初登場シーンが絶妙にさりげないのに比べ
カーロスだけが失敗していることでもわかる。三回目はドサまわりの控え室でジョーが
八百長を拒むところ。70年の45号から翌年7号まで大きな休載となった。
ただしここまででも、駅での別れなど好調部分もある。
しかし、この再開でも回復しなかった。カーロスの逆転試合の末尾を
むやみにコマ分割したのだが、どう見ても失敗している。
また、ドサまわりボクサーたちは存在感が無い。別格の稲葉でさえうまく描けてはいない。
ヤクザのゴロマキ権藤も元ボクサー(少なくとも志望者)であり、
彼の存在感は秀逸だったのに。
また、ジョーが東京へ向かう道中も欠落しているので、事態が急変した実感がわかない。
(5巻でジョーが少年院から東京に戻るところでは、院生との別れとドヤ街住民との再会を
じっくり見せており、東京の最初の絵は半ページ大のセリフ無しのドヤ街であり、
同じ関東ではあるが移動時間の長さを感じさせている)
少なくとも上野駅着は描かないとおかしい。それがあれば白木ジム玄関のシーンはいらないので、
こっちをカットするべきだ。

ジョーが、最初の詐欺未遂・ウルフとの控え室での相打ち・・・に続きプロデュース能力を
発揮するふたつのシーン(12巻の、白木邸と、カーロス・尾崎戦後の会場)さえ、
ちっともうまく描けていない。モッタイナイ。

なお、
これは不調ではないが白木邸の描き方が無気力である。
ちばはよほど金持ちが嫌いなのだろう。さもなければ、
その大きさや内部の豪華さをしっかり表現するはずだ。

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2006/10/18

あしたのジョー概論

古くから[荒唐無稽スポーツ漫画]という量的に最大のカテゴリがある。
架空の「魔球」や「必殺技」をぶつけあう競技劇であり、
大技合戦をやり尽くしたらプツンと終わるのが常だった。
ロボットアニメにおけるファーストガンダムと
荒唐無稽スポーツ漫画におけるあしたのジョーは同じ地位にある。
絵的な、またメディア的手法の熟成を得て中編構造とリアリティをコンセプトに成功した
歴史的名作である。(あしたのジョーはカーロス離日で終わっていた場合だが)
ロボットアニメについて知らない人はマジンガーゼットからガンダムまでの
8年間ぐらいの資料(マジンガーとガンダムだけでもほぼ足りるが)を見ればよく、
あしたのジョーの歴史的地位はそれから容易に類推できるだろう。
リアルロボットが前身の冗漫ロボットと異なるように
あしたのジョーはリアルな人間劇であり、荒唐無稽スポーツではない。
架空のパンチがむしろ余分なことは誰でもわかるだろう。
なお、両作品は劇中と観客の月日の進行が一致していることも共通している。
もう一本、近い地位の作品に水島新司の「男どアホウ甲子園」がある。
従来の野球漫画が野球本来の面白さをほとんど描いていなかったのに対して
水島はとことん描いた。脚本家の佐々木守は野球オンチであまり参加していない。
あしたのジョーも(ひきのばしに入るまで)梶原はあまり参加していない。
また、この二本は三年計画の巨大な中編性も同じだ。


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2006/10/17

あしたのジョー漫画・テレビ・映画の異同その2

映画について

映画1はみごとな構成だ。
連続ドラマのダイジェスト映画はたくさんあるが、
作品的な成功は他に『宇宙戦艦ヤマト』だけだろう。
ヤマトは元々見せ場が乏しかったのでダイジェストがちょうどよかった
のだが、あしたのジョーにも独自の事情がある。
漫画は子供向け映画1は大人向けで、
漫画は読者が知らないことを明かして行くという手法だが、
映画では常識部分をカット、あるいは象徴的な場面を見せることで
表現している。
たとえば漫画では留置所で段平が過去を語るが、
大人にとっては落ちぶれた中年男が若者に
『俺と組んでボクシングやらねえか!』と言うだけで事情はわかる。
映画では謎の特別戦法などの前置きなしで試合が描かれる。
現実の試合はよくわからないままバタバタッと勝負が決まるものなので、
このほうがリアリティ豊かである。
そして力石の死で閉幕となるのは正解のひとつだ。
ヤマトはアニメが先行し松本零士が一冊の漫画にまとめているが
そこで松本はダイジェストの天才ぶりを遺憾なく発揮している。
映画あしたのジョー1もそれに近い冴えを見せている。

第3巻の夕方の運動場の遠景は
[平凡な生活の良さを暗示するわずかに波打つ昼の海・フェリーニの海]だが
うまくはまっていない。
これはアニメの別のシーンに挿入され、こちらは成功している。
ちなみに、あしたのジョーに限らずちばがしばしば描く
[どこも見ていない内省的な目]は『道』のジェルソミーナの目である。
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映画2は
安直なダイジェストで、まとめるための工夫も見られず、
独立した作品とは言えない。
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漫画・テレビ・映画の異同について終わり。

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2006/10/16

あしたのジョー漫画・テレビ・映画の異同その1

テレビ版は、漫画の長い中断(ちばてつやの過労による)により打ち切られた『あしたのジョー』と、
漫画終了後製作された『あしたのジョー2』がある。そしてそれぞれの
ダイジェスト映画がある。漫画と合わせて全部で5本。
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漫画ではカーロス戦は
スパーリング→模範試合→丹下ジム→野球場と4度ある。
テレビ1では丹下ジムの打ち合いでスランプから脱したジョーは
ボクシングを離れどこかへ去る。
テレビ2では球場の試合も描かれる。しかし、ドサまわり→東京へ戻る、が存在しない
のでスランプが短くなってしまった。
ジョーがカウンター中心の変則派ではなくノーマルに強くなったのは
長いスランプ中も練習を続けていたからだ。連敗時の狂ったような練習も
量に応じた価値があった。だからこそタイ人に楽勝した時に深い感動が
あるのだが…。
2は力石戦の終わり部分からはじまるが、葬式の後おでん屋に負けるエピ
ソードもドサ回りも無し。元気に帰ってきたぜ!というところから本格的な
始まりという感じなので(テレビ1がどこかへ行ってしまうところで終わってる
から)1と2がつながっていると思った視聴者がいたかもしれない。
しかし2の途中でもカーロスが初登場するのだから1と2は別の世界である。

漫画はジョーの15才から21才までを描いており年齢に応じて
顔が7段階ぐらいに変わる。テレビ1も年齢の描き分けあり。
しかしテレビ2では最初から20才で2以前にはうやむやにいろいろあって…
となっている。これはつまらない。
漫画が大きな感動を呼んだのは劇中の年月と読者のリアルタイムが一致
していたからだ。テレビ2は技術は満点だが漫画との関係では結末だけ
押えて全部を獲得したと思っているフシがある。
漫画ではカーロスとの出会いはジョー18才だからまるで話が違う。
テレビ2では18才で少年院入りなので罪状は漫画のように大きな目的の
稚拙な詐欺ではなく、ジョーがありふれた犯罪者になってしまうのだ。
(ウルフに30万円だまし取られる話で
 元詐欺師としてのコメントが無いからやはり罪状は詐欺ではない。)
プロボクサー年齢の下限が16才だから、
漫画ではジョーより葉子が2才上、力石がさらに1才上ぐらいだ。
テレビ2でも少年院で力石が18か19なのは動かないのだから
ジョーと最大1才しか違わない。まさか葉子が力石より年上ではないから、
3人は同年齢ということになる。(これもつまらない設定だ。学園ドラマでも
ないのに同年とは)すると力石が死ぬまでのドラマ、
特にジョーのキャラクターは別のものになってしまう。
何よりも、漫画と違って、
少年と青年の良さをあわせ持った美しい時期を描いていない。

ただしテレビ2にも、
私情を混ぜない普通の試合を描き足す、カーロスは漫画より存在感があるなど良い点もある。
また、ちばは解剖学を学んでいないため変な絵をけっこう描いているが、
それはきれいに修正されている。

なお、漫画ではジョーが旅立つ時、紀子に葉書を出すと約束しているが
これは果たされなかった。その後の話の流れから描き込む余地が
無かったのだ。テレビ1ではちゃんと葉書が来る。他にもデビュー戦を
祝って紀子が野の花を贈るエピソードも足されている。
ジョーもちばてつやも都会好きではなく野の人である。
つまり、テレビ1では本来のちば世界に忠実なアレンジがあり、
2では逆向きと言える。

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2006/10/15

ちばてつや絵柄論

力石がトマト(アニメではリンゴ。音が良いからだろう)を食べるシーンには
葉子の両親が全編を通じて数コマだけ登場する。
脇役すべてに存在感がある中その夫婦のみ妙に浮いているのだが、
これには事情がある。

葉子の祖父幹之介が若者のスカウトに熱心な理由が
ここに示されるはずだったのだ。
かつてボクサーに憧れていた彼は息子をボクサーにしたかったのだが
孫にさえ男児を得られなかった。
葉子の父はムコ養子なのだ。
やむなく他人でもよいから若者を得るために葉子を動かしているとすれば、
彼女の行動も説明がつく。
(少年刑務所の慰問とはすごく変わっている。
 梶原なら金持ちの女は何するかわからんで片づいても、
 ちばはリアリティを求める。
 なお、高森朝雄は梶原の本名で、
 同一誌に同じ名が並ぶと体裁が悪いというのでこう名乗った)

しかしちばの絵柄は二枚目三枚目悪役脇役、と類型的に描き分けるものから
脱却しておらず、顔だちで血縁を表現できない。
にもかかわらず無理した結果であろう。

ちばの弟子はるき悦巳は個有の顔だちを描き分けることができ、
『じゃりン子チエ』でチエの父はその父似であり、
チエは祖母似だが目だけはタレ目で母似である。
(ジョーが働く乾物屋の親子はまったく似ていない。
 ちばがはるきに隔世遺伝と説明したのではあるまいか)
警官のミツル母子・ヒラメ兄妹と母・マサル母子、も同一の顔だちである。
初期から登場する教師花井父子は似ていないが、
14巻で息子は死別した母親似であることが明らかになる。
この『花井のオバはん』の顔は全編を通じて一コマだけ、
写真の中に小さく描かれておりその話は健男児を得られなかったので
他人を可愛がったという、 
幹之介・力石と同じ関係を3週に渡ってわかりやすく描いたものだ。

言うまでもなく紀子と葉子がそっくりであることは
ストーリー上無用であり、単に女性の描き分けができないだけだ。
これは、[本格的に写実に基づいてはいない]ためである。
絵柄的弱点が表われた作品には、他に『風のように』という中編がある。

弟子の政岡としやのデビュー作「突撃だ将軍」の絵は
稚拙ではあるが誰の模倣でもない。
彼はその後の研鑽で自在な画力を獲得している。
つまり、自然主義に加えて絵柄に関してもちばは反面教師だったわけだ。
はるきは政岡の後輩である。

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2006/10/08

あしたのジョー最終回の真相4

もうひとつは
自然主義(モーパッサンのように悲惨な現実をありのままに描く)
との関係。
これに挑戦して失敗した。
『紫電改のタカ』でも機銃掃射で殺される米人の家族を
人形のようにしか描けなかったことを悔やんでいる。
この点ちばを反面教師として成功したのが弟子の政岡としやで、
戦争や貧困を描いて『悪たれ』『火の瞳』など美しい中編を生んだ。
また、政岡と深い関係にある山上たつひこの影響がムードや絵の類似から
うかがえる。山上は不思議な作家だ。創作は大きく三つに分けられる。
ギャグに転向する以前は読者の評価が一致して天才であり、
がきデカの全盛時は堅実な職人であり、
その後凡才となり作家生命を終える。
(天才・職人期をそれぞれ青年・円熟期に分け、全体を5分割もできる)
これは勢いが次第に衰えたのではない。3つがぜんぜん違う。
天才期には『光る風』『良寛さま』『やってきた悪夢たち』
『国境ブルース』『ウラシマ』『2丁目1番地恐怖団』『焼却炉の男』などなど
主人公が敗北し、あるいは廃人のようになって終わるものが非常に多い。
もちろん作品として破綻しているのではなく、安直な悲劇でもない。
それは言わば[博物学的な、中心の無い世界観]である。
(山上の弟子六田昇の『バロン』はこれを踏襲したものだ)
これが悪く作用したのだろう。カーロスの再登場からだ。
ただし、ちばにも『餓鬼』という中編(71年頃)があり、これは
最初から破滅に向かう構成で成功している。
この成功が、あしたのジョーの終盤をグラグラにしたのかもしれない。
なお、漫画界の自然主義の総元締め、
山松ゆうきちの名をここに書いておこう。
山松は貸本出版『日の丸文庫』で山上の同僚(二人とも最初は記者)であった。
-----------
最終回について終わり。
もっとテーマをスパッと分けられないかというと無理。
深くつながってるから。

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あしたのジョー最終回の真相3

なぜあんなウヤムヤのラストになったのか?
ポイントは、失敗しているということだ。
普通に読んで意味がわからないのが良いわけがない。

失敗の理由はふたつある。
ひとつは無理な連載引き伸ばしによって終盤ガタガタになったこと。
ちば世界では戦いは、やがて否定されるために描かれる。
ジョーは政治家志望であり、数年ボクシングに巻き込まれたが
力石の死によって個人的な闘争の空しさを悟り
本来の人生に戻ってゆく…これがちばの構想であった。
カーロスとの戦いはボクシングにケリをつけるためだ。
だから『勝ちたい』ではなく『戦いたい』となっているし、
その試合も勝敗を否定することで終えている。
したがって本来のラストはテレビアニメ1の終わり方だ。
都会に流れついた男が数年ボクシングをやり、終えて、去ってゆく。
新しい土地では新しいドラマがあるだろう。まだ18才なんだから。
そしていつかは戻ってもくるだろう。
紀子は何年でも待っているに違いない…。
(カーロス戦で紀子がセコンドについたのは本人の要望である。
段平が拳闘好きの若者に、すでに有名なジョーのセコンドを
頼むのは簡単なんだから。紀子は言わば恋敵のボクシングに
触れたかったのだ。肝心のジョーは気づいていないのだが…。
ジョーを花火大会に誘って断られ、意外にあっさり諦めるシーン
・・・以前西が拳を痛めた夜のほぼ同じシーンで紀子はひどく怒って
帰っている・・・では、セコンドにつくことがすでに決まっていたわけだ)

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あしたのジョー最終回の真相2

梶原一騎は俗悪そのもので、
金持ち・美人・東京コンプレックスで固まっている。
(持ち味であって、脚本家としてそれが悪いわけではない)
ちばてつやは敬虔なクリスチャンで博愛の社会派。
イベントより日常を、試合より練習を好んで描く。
つまり二人は水と油で、
ろくに打ち合わせをしなかったので力石が大男になったのは有名な話だ。
ボクサーの体格をしっかり指定しない梶原が悪いのだが、
確認せず勝手に描いてしまうちばも
脚本家をないがしろにしていると言わざるをえない。
体格差がなければずいぶん話が違った。
14巻以降の引き伸ばしに入るまではちば主導の作品なのである。
梶原が他の漫画家と組んだ作品と、
純正ちば作品をいくつか読めばよくわかる。
5巻の『ジョーが人間の愛に涙を流したのはその夜が初めてのことであった』に至る
長いナレーションはちばのオリジナルだ。
梶原の『あした』は世間的な出世だが、そんな話にはなっていない。
農作業や土木作業は梶原としては[しかたなくやっている]
だが、ちばにとって汗を流して働くことは人間の喜びである。
ドサまわりも梶原は『東京を離れる=都落ち・辛くて悲しい』
という認識だが、ジョーは風来坊だから旅に出るのは楽しい。
このように両作家はズレており、その最たるものが葉子の扱いである。
ジョーが早くから(2巻)見抜いたとおり、葉子は自分の都合しか考えない。
力石に水を与えて拒否されるシーン
(それを飲んだら減量は挫折するに決まってる)や、
レントゲン写真をコミッショナーやマスコミではなく
ジョー本人に送ったことでわかる。
最期に控え室でジョーのことを好きだというのだが、
仮にそれが本当でも
[好きだから望みをかなえろ]という180度曲がった言い分だ。
結局葉子は力石からもカーロスからもメンドーサからも
ジョーからも(詐欺の被害者として登場する)金持ちとして
利用されただけだった。
ちばは『葉子はなんのために出てきたのかわからなかった』とヒドイことを
言っている。
6巻に、白木邸で、実力で地位を上げる者たちの話に加われず
キレてしまう葉子が描かれるが、その突き放した描写は
ちば作品全部の中でもそこにしか見られない。
ちばが愛さなかった唯一のキャラクター。
[誰をも愛さなかったので誰からも愛されなかった女]となっているのだ。
グローブを貰えるわけがない。

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あしたのジョー最終回の真相1

あの試合は中盤でジョーのK0負け。
葉子が試合場から逃げ出すところまでしか劇中の現実は描かれていない。
葉子が戻ったあとの描写は、[夢のようなもの]なのだ。
明らかにありえないこと
(ダブルクロス・トリプルクロスカウンターが決まり、
 さらにチャンピオンが立ち上がる。ジョーが葉子にグローブを渡す)が
描いてあるから。

既存の手法で、福永武彦の『死の島』や
筒井康隆の『男たちの描いた絵(音楽家になりたかったヤクザ)』や
(作家忘れたが)映画『昼顔』がそうだ。
『さらば宇宙戦艦ヤマト』のラストで死体のユキが目を開くのも同じ。

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漫画史超概論

電気製品は改良品が新製品だから新しいほど優れているが
創作の質的新しさは年代と一致しないことが多い。
漫画は書物であり定期刊行物でないほうが量的にもメインである。
コンビニ本の中身は10~40年前の漫画だが中高生が普通に買っている。
漫画の特性は画面の大きさおよび劇中の時間帯をいくつに分割するかが
別々に同時にあるため多元的音楽的な面白みが生まれることである。
すなわち「対比的な」大きさや密度のメリハリであり、或るバランスが求められる。
にもかかわらず商売的には大きな絵をたくさん入れるほど楽に儲かる。
これはテレビ番組で尺を稼ぐためにだらだら進行するのと同じだ。
また、大きな絵をむやみに使ったら対比的に小さくなる。
したがって、歴史的必然的に、大筋において平均的には、
漫画作品の質は本を作る紙の値段によって決まる。そのバランスが理想的だったのは
60~75年あたりで、なおかつ、ストーリーあたり枚数が豊富になり
リアルプロポーションで描けるようになるにつれ
少頭身から絵柄を変化熟成させたつまり最良の手順と準備期間を経た
漫画家たちの「旬」の時期が重なったこともあり、70年前後が質的ピーク期と言える。
彼らの各時代の漫画をいくつか読めば歴史的推移は割りと簡単にわかるだろう。
その後も優れた作家・作品はもちろんあるが、本記事は大筋の流れの話だ。

あるていど若い人でもジャンプ最盛期とその終わりを知っていれば
年代的に新しいほど良いわけではなく必然的な流れとして下降がある、
というパターンを理解できるだろう。
その期間を含んだ全体の超概論がこの文章である。

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